無力さを実感する


先日、母親が事故にあった。
幸い、母には怪我はほとんどなく、相手方も骨折で済んだ。

相手方は、無免許、スピード違反(原付で60キロオーバー)、事故後の逃走行為という本当に救いようのない未成年だった。
この子にしてこの親ありというような親で、こっちも救いようがない人だった。

本当に、どうしようもない行為で、こちらが傷つき、ただ我慢するのみでは、納得できないため、全力で動いた。
動いて、考えて、折衝して、保険屋とも話し合い、まとめて、考えて、まだ総括できずにいる。

結局、自分の無力を痛感しただけだった。
自分でしたことが、どれほど有効だったのか、まだわからない。
しかし、たとえ有効だったとしても、事前に効果がわからない行動など、意味は無いように思う。

また、法の無力も痛感した。社会の無力も。
そもそも、親の適切な看護を期待することを前提とする少年法は意味がない。
そして、さらに、親を裁くことのできない少年法は意味がない。
結局、被害者の感情は、現場の職員が考慮するだけで、法律の段階では無視されているに等しい。
勝手な推測だが、この少年は、また同じようなことをやるだろう。
それが、また、同じような心の傷を生み出すのだ。

私は、確実かつ適切なスキルを身につけたい。
法律だけではない。法律を知って、使いこなせて、それがいったい何の役に立つのだ。結局、その人の生き方、学び方、そのすべてに、法律の知識が乗っているにすぎない。

私は、確実かつ適切なスキルを身につけたい。
法律を学ぶ課程で、それだけは忘れないようにしようと自分に誓う。
また、法律を学ぶことなど、一つの、それも膨大な全体のうちのたった一つの、過程にすぎないことも忘れないようにしようと誓う。

法律など、結局、その社会を構成する人間の写し鏡だ。
人が変わらなければ、政治が変わらないのと同様に、法も変わらない。
私に、人を変えることなど、少なくとも今のところできない。
だから、自分を変えていくしかない。自分で納得できる自分に。

それが、今回学んだ教訓。

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